PC市場でインテルを圧倒する勢いのAMD。しかしインテルは、2000年代後半から2010年代前半にかけて、PC用CPU市場を支配してきました。対してAMDは、2016年頃までインテルの競争相手とはほとんど見なされていませんでした。
では、なぜインテルはAMDに敗れ去ったのでしょうか?これについて、海外の投資情報を取り扱うYouTubeチャンネル『Wall Street Millennial』が解説しています。
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インテルの台頭とAMDの成長
◇ なぜインテルは巨大企業へと成長できたのか
インテルは1968年にゴードン・ムーアとロバート・ノイスによって設立されました。ゴードン・ムーアは、半導体分野のパイオニアであり、ムーアの法則を発明したことでも有名な人物です。ムーアの法則とは、マイクロチップ上のトランジスタの数が毎年2倍になるというものです。
インテルは1971年、DRAM(ダイナミック・ランダム・アクセス・メモリー。現在のPCでも採用されている)を開発したことで成功を収めました。しかし、1980年代に入ると、DRAMの競争が激化し、メモリの価格が下落。ここで当時CEOだったムーアは、会社の焦点をメモリからプロセッサ(CPU)に移すという決断を下しました。
インテルは32bitに拡張したx86アーキテクチャを採用した『i386』というプロセッサを開発し、これが大成功を収めます。インテルはこの分野で成長を続け、2000年代初頭までは半導体業界で支配的な存在となっていました。
◇ AMD最初の台頭と、インテルが取った「反競争的な作戦」
しかし、2000年代初頭から、当時小さな存在であったAMDという会社が、インテルの市場シェアを奪い始めました。AMDは急速に成長し、2005年にはデスクトップCPUの市場シェアでインテルを追い抜きました。
当時のAMDのプロセッサはインテルよりもはるかに低品質でしたが、AMDは低価格なプロセッサとして市場のシェアを獲得していきました。
AMDを脅威に感じたインテルですが、同社は自社製品のコストを削減してAMDと真っ向勝負するのではなく、市場の支配力を利用してAMDの阻害に走ります。競合他社のCPU(つまりAMDのプロセッサ)を導入した場合、割引や技術サポート、供給保証、特許責任補償などの特典が受けられなくなると取引先であった多くのPCメーカーを脅したのです。
さらに、競合他社のCPUを搭載した製品の発売を中止または延期させるため、主要な小売業者やメーカーに賄賂を支払うことまでしました。さらには競合他社のCPUでは動作が遅くなるオブジェクトコードを生成するコンパイラを設計し、その性能差をコンパイラではなく競合他社のCPUのせいだと偽っていました。
このようにインテルは手段を選ばずにAMDを阻害し、実際にこれは功を奏しました。インテルは2000年代前半にAMDに奪われた市場シェアを、2008年までに取り戻すことができました。
◇ モバイル事業の失敗によりインテルは失速を始める
ここまでは順調だったインテルですが、2011年に参入したスマートフォン市場のプロセッサ事業で大失敗をします。2016年、同社のスマートフォン部門は資金不足に陥り、ついに数千人の従業員を解雇して事業を縮小することを決定しました。この損害はインテルのコアビジネスであるデスクトップPC市場にも影響しました。
さらにインテルが行っていた反競争的な行為も追い討ちをかけ始め、日本や韓国の公正取引委員会、欧州委員会から罰金などの様々な措置がなされました。規制当局からの監視も強化され、これまでの反競争的な行為が今後のインテルのビジネス戦略として成り立たなくなりました。
インテルは市場を維持するため、ice Lakeと呼ばれる10nmプロセスのCPUに大掛かりな投資を初めます。しかし10nmのチップの製造は予想以上に困難であり、前述の失敗による疲弊も影響し、発表は当初の目標より3年遅れの2019年末でした。さらに発表後も製造上の問題により、本格的な生産は2021年まで遅れました。
その間、インテルは時代遅れの14nmのskylakeインフラを使わざるを得ませんでした。インテルが10nmという目標に挑んでいた間、amdはPCチップ技術におけるインテルの支配的な地位を奪う計画に着手していました。